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大谷おさむ

東京の秘境、檜原村で昔ながらの土窯を使い、こだわりの硬質竹炭と無蒸留・高純度の竹酢液をつくっています。

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炭焼きと神様の話

 初火入れに際し、神職の方にお越し頂いたり、志波彦(しわひこ)神社・鹽竈(しおがま)神社に竹酢液・竹炭を御奉納させていただいた際に神職の方にお会いしたりして、竹炭、炭焼きなどと神様との関わりについて色々なお話を伺いました。その際、色々と感銘を受けることも多く、私の今後の炭焼きにも生かしていきたいと考えるお話が数多くありました。
 そこで、今回は、少し趣向を変えて炭焼きと神様との関わり合いについて、解説してみたいと思います。なお、私は神職様ではありませんので、もしかしたら間違っている事もあるかも知れませんが、そこの所はご容赦下さい。
 

はじめに

 古来より、我が国の人々は諸々の万物の中に神様を見いだしてきました。山には山の神が、川には川の神が、海には海の神が、風が吹けば風の神がと言うように、自然や自然現象などの中に神々を見いだしてきました。しかも、その感性は、自然や自然現象のみならず、機織りや、農耕、学問などと言った人間による社会的な活動の中にさえ神々を見いだしていきます。まさに我が国は古来より「八百万の神々の居ます国」だったわけですが、残念ながら、「炭焼きの神様」として祀られている神様はいらっしゃいません(今現在私が調べた限りにおいてはですが…情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご一報下されば幸いです)。 山Photo by SOLIDLABEL
川  このように我が国において、古来よりたくさんの神々が見いだされてきたことは、一説には、我が国の自然環境が豊かだったからと言う話です。なるほど、我が国には四季があり、美しい山々や、その山々のもたらす美味しい水が豊富にあり、また四方を海に囲まれていて、海の幸山の幸に恵まれてきました。このような豊かな自然環境に恵まれてきた我が国の人々が、その恵みの中に神を見いだしてきたことは、納得のいく話だと思います。 また一方で、自然は人間に恵みをもたらすだけではなく、恐ろしい力を見せつけることがあります。河川の氾濫、台風、火山の爆発、地震、火災、津波、土砂崩れなどの様々な自然災害は、科学の進んだ現代においてすら防ぐことは不可能です。
 ほとんど科学技術を持たない古代の人々がこれらの自然災害を心から恐れたことは、想像に難くありません。このため古代の人々は、自然そのものである神々を恐れ敬い、祀ることで、その災害を鎮め、恵みをもたらしてくれるよう祈ったそうです。これが「神道」の始まりであり、その当時の人々は神様を信じていたわけではなく、神様を感じていたわけです。神様とは人智の及ばない力とその現れであり、信じるとか信じないとかの話ではなかったようです。山があればそこには山の神が、川があればそこには川の神が、雨が降るのも、日が照るのも全て神々の力の表れであり、古代の人々と神様は今よりずっと身近だったようで、人々は神様と共に生き、その恵みに感謝し、その力を畏れ敬い暮らしていたそうです。

 私の行う炭焼きも、そんな神様の恵みを頂き、畏れ敬う職業です。さて、では、炭焼きにはどんな神様の力が働いているのでしょうか。まず最初に挙げられるのは、高天原の主神にして最高神、天照皇大御神様。言わずと知れた「太陽」を表す女神様であり、伊勢神宮(内宮)の神様でいらっしゃいます。神道にはこういう歌があるそうです。

たなつもの 百(もも)の草木も あまてらす 日の大神の恵みえてこそ


ご来光

Photo by EyesPic
 たなつものとは、穀と書くそうで五種の穀(いつくさのたなつもの)などという言葉で分かる通り、穀物のことで、要するにお米や麦などの食べ物のことです。つまり、食べ物も、野山の全ての草花もすべて、太陽そのものである天照皇大御神様のお恵みがあればこそのものです、と言うことだそうです。もし、太陽が照らなければ地上の全ての動植物は完全に死滅してしまいますよね。 当たり前と言えば当たり前なのですが、太陽が照るという当たり前で、重要なことが人間には何の及びもつかないところで行われているわけです。これが神道の考え方で、人智を越えた力に感謝する、畏れ敬うと言うことなわけです。
 さて、天照大御神様ですが、まぁ、これは当然と言えば当然な神様です。何せ天照大神様のお力がなければ、竹炭に使う竹はおろか、私だって生きていけないのですから…と言うか炭焼き以前のお話ですよね。
 

火と竈の神様

  さて、次に炭焼きに関係するもので考えていきたいと思います。まず、絶対にこれがなければダメ、炭焼きが出来ないという点で外せないのが「火」です。
 火の神様は、火産大神(ほむすびのおおがみ)とおっしゃる神様で、火や炎そのものの神様でいらっしゃいます。京都は愛宕山に鎮まる愛宕神社、また、秋葉神社にも祀られる火の神様です。
 炭焼きでは絶対に外せない神様で、火がつかなければ炭が出来ません。ただ、火の勢いが強すぎると、炭にならずに灰になってしまいますので、良い炭を焼くためには、火産大神様にほどよくお働きになっていただかなければなりませんね。また、絶対に慢心してはならないのは、この神様が一度荒れ狂うと、火災が発生することです。炭焼き中の燃焼室の温度は1000℃を超えます。
炎
Photo by (c)Tomo.Yun
 ですので、万が一、火入れの最中に天井などが崩れ落ちれば火柱が上がり、少量の水や消火器などでは絶対に消し止めることが出来ません。基本的に炭焼き窯は山の中が多いですから、山火事になってしまうおそれがかなり高いです。そうなってしまったら、鎮火は容易なことではありません。まさに取り返しが付かなくなってしまいます。
 実は、私も以前、日の出町で炭焼きをしていた際、ぼやを出したことがあります。最寄りの消防署まで距離のある場所ですから、山火事になりはしないかと冷や汗をかきましたが、幸いその際は、ぼやですみました(それでも、消防車が何十台も出動して大騒ぎになりました)。
龍の土鈴  不思議なことに、その際、窯の側に龍の土鈴(左の写真)を置いていたのですが、その龍の土鈴の所で炎が止まり、それ以上大きな火災にならなかったのです(土鈴の鼻の部分はコゲてしまいましたが…)。私は、あのとき大きな火災にならずに済んだのは、神様のご助力があった物と信じていまして、その土鈴は、今でも大切に窯場の神棚に置かせていただいています。

 
 全く炭焼き人として、火災を出してしまった事は、恥ずかしい限りです。あのとき、私の中に慢心する心があり、火を取り扱っていることに対して、畏れ慎む心が無くなっていたのだと恥じ入るばかりです。
 火の神様でいらっしゃる火産大神様は、人間にたくさんの恵みをもたらせてくださいますが、一方で、ひとたび荒れ狂えば全ての物を焼き尽くしてしまわれる怖い神様でもあります。東京の芝に愛宕神社があるのも、江戸の火伏せ(火災予防)のために、わざわざ京都の愛宕山から分祠したのが始まりと聞いています。みなさんも趣味などで炭焼きをする際には、火災にだけは十分注意してください。

 では次に、炭焼き窯について考えてみたいと思います。別に炭焼き窯に限った話ではなく、古来より竈には竈の神様がいらっしゃいました。この竈の神様を奥津彦・奥津姫大神(おきつひこのおおがみ、おきつひめのおおがみ)と申し上げ、先ほどの火産大神と併せて竈三柱大御神(かまどみつはしらおおみかみ)と申し上げるそうです(神様は一人二人ではなく一柱、二柱と数えるそうです)。
 この三柱の神様達は、家庭の竈(最近はガスコンロやIHヒーターなどですが…)や、もちろん炭焼き窯、陶芸の窯など、竈に宿る神様だそうです。先ほどの火産大神の話と重なりますが、これらの竈の神様は、火と竈の恵み(料理や炭焼き陶芸など実に様々です)をもたらしてくださいますが、反面、荒れ狂えば、火災を発生させてしまいます。そこで昔の人々は、これら三柱の神様達を祀り、その恵みに感謝すると共に、「火の禍事」(火災のことですね)の無いようにと祈念したそうです。
   

竹の神様

 炭焼きにも色々とありますが、私の窯では、黒炭の竹炭を焼いています。今回は、この竹炭の原料となる、竹についてお話ししたいと思います。
 神職様に伺ったところによると、竹の神様として祀られているのは、鹽土老翁神(しおつちおぢのかみ)と言う、白い髭を蓄えたおじいさんの神様だそうです。
 なぜこの神様が、竹の神様として祀られているのかというと「古事記」の中の一節、海幸彦と山幸彦の段で、お兄さんである海幸彦の釣り針を無くしてしまった山幸彦が、海を眺めながら途方に暮れていると、そこに鹽土老翁神が通りかかり、事情を尋ねると、「それならば、大綿津見神(おおわだつみのかみ)の治める海の国へ行って、釣り針を捜されるのがよろしいでしょう」と言って、竹を編んだ籠で作った船に山幸彦を乗せて海の中に送り出すシーンがあり、そこから、鹽土老翁神が竹の神となったそうです。
 
竹林
Photo by EyesPic
鹽竈神社境内のご神木
鹽竈神社境内のご神木
 さて、この鹽土老翁神様ですが、宮城県塩竃市一森山の鹽竈神社に鎮まる神様で、東北開拓と製塩業の神様として有名です。市内の末社「御釜神社」には、約1000年前から伝わる製塩用の鉄釜が納められていて、年に一度のお祭り「藻塩焼き神事」の際に使用されるそうです。この釜の不思議なところは、いつも海水をたたえている鉄製の釜であり、しかも、1000年もの時を経ていながら、腐食や錆がほとんど見られないのだそうで、今以て、なぜ腐蝕しないのか原因が分からないそうです。まさに、神秘の釜というわけですね。
 私は、この鹽土老翁神様が竹の神として祀られていると言う話を伺ってから、いつか鹽竈神社にお参りしたいと思っておりまして、一号窯と二号窯が完成した際にそれぞれ、初窯の竹炭と竹酢液を御奉納しに行かせていただきました。
 志波彦神社・鹽竈神社は、想像以上に素晴らしいところで、境内には天然記念物の塩竈ザクラが満開に咲き誇っていました。参拝を済ませ、竈の完成のご報告といつも竹を使わせていただいていることなどを感謝して、竹酢液と竹炭を御奉納させていただいたところ、神職様方に大変感謝され、ご丁寧なお手紙まで頂きました。炭焼き人として光栄なことだと思っています。また、いつも無限窯の竹酢液・竹炭をご利用いただいているお客様方にも感謝していただき、本当に嬉しく思っています。
 
鹽竈神社境内の塩竈ザクラ
鹽竈神社境内の塩竈ザクラ
 当サイトのトップページにありますように「竹の恵みを人から人へ」と言うのは、竹を恵んでくださる鹽土老翁神様をはじめとした諸々の神様の恵みを頂き、多くの人々にお分かちする事だと考えていますが、そのようにさせていただいていることが、こんなにも神様に喜ばれることなのかと、とても感激いたしました。
 人というものは、ややもすると感謝を忘れ、不平不満ばかり並べるようになるものですが、神様から恵みを頂くことに素直に感謝し、それを生業として、多くの人々にその恵みをお分かちし、そのことでまた感謝されることは、本当にありがたいことだと思っています。この心を忘れずに炭焼きに精進していきたいと思っています。
 
 

土地の神様

 神社 さて、忘れてはならないのが土地の神様です。炭焼きをするにしても、生活をするにしても、土地というものが必要になります。古来、これらの土地は全て土地の神様のものであり、人間のものではありませんでした。人々は、土地の神様に許しを乞い、その場所で生活することを許して頂いていました。
 この土地そのものの神様を大地主大神(おおとこぬしのおおがみ)と申し、また、その土地を治める神様を産土大神(うぶすなのおおがみ)と申し上げます。
 産土大神とは、古来よりその地を治める神様ですので、場所によっては、それが八幡神社だったり、稲荷神社だったり、天満神社だったりするわけで、ようするに氏神様と言うとわかりやすいと思います。
 この古来よりの、土地の神様に許しを乞い、その場所で生活することを許して頂くと言う風習は、現在も地鎮祭という形で生き残っていますね。私も、現在の窯場を開設するにあたり、地鎮祭を執り行って頂きました。このように、古来より我が国の人々は、全て神様の恵みをいただくと言う感謝の気持ちと、畏れ敬う気持ちを持っていたのだと感心させられます。
 

月の神様

 当サイトの〈月との関係?〉に述べましたが、私は、月と竹との不思議な関係について興味を持っています。
 そこで、月の神様について調べてみますと、月の神様は月読大神(つきよみのおおがみ)と申し上げ、天照大御神の弟の神様で、伊勢皇大神宮別宮や月山神社に祀られる神様です。
 月読大神様は、月と月の満ち欠けを司る神様であると同時に、人の運命を司る神様でもあるそうです。古来より、人は月に神秘的なものを感じていました。かぐや姫がやってきたのも月からですし、赤ちゃんの出産なども月の満ち欠けと関係があるのではないかとも言われています。
 月は、太陽と同じように天空にあって、私たちには分からないような不思議な恵みを、地上に生きるものに与えてくださっているのかも知れませんね。
 
月とススキ

 

おわりに〜炭焼きをすると言うこと〜

 このようにあげてきましたように、炭焼きと言うだけでたくさんの神様の恵みを頂いていることが分かります。逆に言ってしまえば、神様の恵みがなければ、炭焼きなどとてもおぼつかないというわけです。
 かつて西行法師は、仏教徒でありながらも、伊勢神宮を参拝した際、次のような和歌を作ったそうです。
 
何事に おわしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

伊勢神宮 内宮

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 古来より、我が国の人々はこのように感じ、神を祀り、感謝を捧げてきました。私はこれこそが日本人の中に根付き、脈々と受け継がれてきた、〈日本人らしさ〉そのものだと思います。そこには、仏教徒だからとか、キリスト教徒だからとか、神道だからなどと言う宗教にありがちな、垣根などが一切無く、ただ純粋に、目に見えない大いなるものへの畏怖と感謝に満ちあふれていると思います。

 神道とは一部の宗教家や聖職者、修行者だけのものではなく、全ての人達が、それぞれに神を祀り、畏れ敬い、感謝の誠を捧げてきました。あらゆる職業に就く人たちが、それぞれの職業の中に神を見いだし、まさに神様と共に働き、喜び、生きて、死んでいったのです。〈神様と共に生きること〉これこそが、神ながらの道、〈神道〉だと思います。
 よく言われることだそうですが、神道には〈教え〉が無い、だから宗教ではないと言われるそうです。私は、まさにそうだと思います。神道は宗教ではないと思います。ただ単に、神様と共に生きること、それに尽きることだと。
 私が色々なお話を伺い、感銘を受け、考えたことは、炭焼きを私の神事としようと言うことです。神様達の恵みを頂き、それを感謝し、神様と共に炭焼きをしよう、そしてその恵みを人に分け与えていこう。これこそが、私の神事であり、神道なんだと思っています。
 そうは言っても、炭焼き人としても、人間としても、まだまだ未熟な私のことですから、果たしてそれが出来るのか、神様の恵みを頂いて炭焼きをするわけですから、最高のものを作らなければなりませんが、そう言ったものが果たして自分に作れるのか、難しいところです。
 ただ、私の今後の炭焼きの出発点として、そして、終着点として、この事はずっと心に留めて、精進していきたいと思っています。
 
一号窯
無限窯 一号窯
 かつて、我が国の人々は、神様と共に生きており、人間と神様との関係はとても近かったように思います。しかし、科学技術が進歩した現在、人間と神様の距離は開いてしまったようにも思えます。ただ、それは神様が人間から離れたのではなく、人間が神様から離れたのだと思います。科学技術が進歩し、人が月の上を歩くようになると、「神様なんていない」「神様なんて信じない」と言う風潮が強くなっていったように感じます。
 ですが、人が月の上を歩こうと、DNAが解析されようと、太陽はずっと天空にあり、相変わらず風がそよぎ、川が流れ、海の波は変わらずに打ち寄せています。神様は、人の営みや、科学の進歩とは何の関係もなく、あり続け、恵み続けています。科学技術が発達するに連れて、人々が神様から離れていき、神様を感じなくなっていったのでしょう。
 私は、科学を否定したり嫌ったりはしません(特に電気の来ていない窯場にいると、電気のありがたみを感じます)。本来、神様と科学は別に敵対する概念ではありませんから。ただ、私個人は、もっともっと神様を身近に感じていたいと思いますし、どんなに科学が発達し、その恩恵を被っていても、神様を身近に感じることは出来ると思っています。
 かつての人々が、神様を身近に感じていたように、私も今一度、その原点の心に戻り、神様に心を寄せて、炭焼きをしていきたいと思っています。

 私にとって、炭焼きをすると言うことは、たくさんの神様達の恵みを頂き、それを感謝し、そして、その恵みをたくさんの人たちに分け与えていくこと。神様と共に炭焼きをする、まさに神事であると思っています。